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平戸往還  籠を担いで名を賜る

平戸往還  籠を担いで名を賜る

佐世保地区連合史跡保存会会長

久村貞男

 

江戸時代、東彼杵で長崎街道から分岐して平戸までを連絡する松浦藩の公道が平戸往還である。幕府は東海道や中山道などの主街道を整備するが、対する地方道が平戸往還と思えばよい。近年は平戸街道とも呼ぶようだが、往還が正しい。

現職のときの仕事柄、平戸往還は全線を踏破し、また長崎街道は佐賀県大町から福岡県飯塚まで歩いた体験がある。そこで街道と往還の違いをまず記しておきたい。往還は道幅1間(180㎝)で、馬による荷の運搬つまり荷駄がすれ違える規格となっている。山や丘があれば直登し、また下る。これも人と馬が行き来する道に由来する。

一方の街道は幅が2間で、荷車が行き違える規格である。そのため主に平野に敷設され山があると麓を迂回している。坂はあっても平戸往還の峰の坂のような急坂はない。従って、平戸街道と呼ぶのは間違いなのだ。

平戸往還は江戸前期に整備されたものだが、平安時代や鎌倉時代からの古道が一部利用されたであろう。例えば、戦国時代の永禄7年(1564)、平戸松浦氏が相浦の宗家松浦氏を攻めた半坂の戦いは、佐々と中里を連絡する古道の峠を挟む国境の戦いであった。つまり、平戸の軍勢が古平戸往還を攻め登って来て、宗家が迎え撃ったものだった。

また、戦国末期の天正14年(1586)4月、大村純忠が旧領を奪還せんとして攻め、落城させた井手平城の戦いがあり、その10月に大村と平戸の代表が国境を決めるために出会ったのが重尾の舳ノ峰である。その両者が歩いて来た道もまた古平戸往還である。

往還は、普段は一般の人々が往来する道であり、稀に平戸藩主の参勤交代、長崎勤番、領内巡見に利用された。そのため藩主の宿泊や休憩のための本陣が配置されている。本陣は、江迎の山下家(潜龍酒造)のように財力に優れた事業家が経営しているが、宿泊費は別としても藩から特別な経費が支給された訳ではなさそうだ。いわば名誉職のようなものか。

その江迎本陣は現存する唯一の遺構である。ほかに佐々本陣は酒造業の内山家、中里本陣は中里町の西牟田酒造、佐世保本陣は相生町のJTビルにあった山本家、早岐本陣は早岐1丁目の村上病院にあったが今はない。

明治になり、近代化を目指して新たに公道が整備される。その目的の一つが大砲を引いた軍隊が行軍する軍事道路である。西南戦争田原坂の戦いは、まさに薩軍、政府軍いずれも大砲が移動できる道を巡る戦いであった訳だが、その国道は佐世保でも例外なく明治10年(1877)前後に建設が始まり、明治30年(1897)の鉄道建設、その後の道路網の整備で今や平戸往還は切れ切れになっている。

それでも市街地や郊外のなかに、例えば峰坂町の峰の坂から山祇町の籠立て場を経て、大和町へ下る緑坂など、往時の面影をよく残して見ることができる。試しに松川町3組公民館脇に始まる峰の坂を歩かれるがよい。今どきの私たちの軟弱な足腰にはいささかきつい坂道なのだが、江戸時代では朝に早岐本陣を立ち、佐世保で休憩して夕がたには江迎泊となる。普通に健脚を持った人たちには何ということもない坂だったであろう。

さて、筆者の家は大野の原分町坂の下にあり、江戸期の先祖は殿様の籠を担いでいたと伝える。制度として、往還の沿線百姓は藩主の籠を分担して担ぐ役が課せられていた。その先祖の明治5年(1872)、いよいよ百姓も姓を冠することとなるとき、「久村」の名を殿様から頂いたと言う。私が父親から聞いた時より80年余り前となり、それは事実である。恐らく殿様付きの執事が長年の功績に用意していたもので、同じ地域に重ならないように配慮されたらしい。そのため「久村」は佐々、大野(私)、早岐、川棚と往還に沿って適当に分布している。