
朝気町〜将冠岳〜但馬岳〜弓張岳
取材日:2009.7.23
市街地からそう遠くないのに緑豊かな山に囲まれ、
歩き応えも十分な縦走コース。
ところどころに現れるビューポイントがエッセンス。
最後は佐世保の街と九十九島が一望できる爽快感バツグンの弓張展望台。
頑張って歩いたご褒美に弓張の丘ホテルでランチをいただく、
なんていう楽しみ方もおすすめ。
歴史も知った将冠岳登山
将冠岳に吉岡町から登るルートがあるのを知る人は少ないだろう。少しハードだけど面白い登山道だ。MR野中駅を朝7時半に出発。風神神社を見て進むと、右手に石垣の古い家がある。武家屋敷の名残があり『静観山の家』と呼ばれる。幕末の儒学者楠本端山がたびたび訪れて将冠岳の眺めを楽しんだという。
分かれ道を右へ進む。落葉が堆積して判りづらいが炭鉱時代のコンクリート道だ。登山道の表示があった。階段を上ると、金比羅神社に着いた。相浦が一望出来る。汗ばんだ身体に風が爽やかだ。
さあ、これから本格的な登山だ。薮に分け入って斜面を登ると、水が湧く古い道に出た。そこから左に、大石がゴロゴロした急斜面を這うように登る。登り切ると『中吉越』の表示がある。そこから稜線伝いに行き、展望がいいアサンキ(朝気)岳に着いた。ここは標高400m。さらに先に進むと、横尾町方面が望める崖の上に出た。柱状節理の岩が切り立って壮観だ。
龍宮岩という祠があった。それをまわり込むように上がると、ようやく将冠岳山頂(445・1m)に着く。ひとやすみだ。ここから眺める九十九島も美しい。
将冠岳から昔の道が高筈分岐まで下っているが、今回は中通り登山口に下る。杉木立の斜面に、アオキが茂っている。やがて中通町から来る車の道に出た。雑木林の道を進むと、やがて但馬越に着く。鳥居を潜って戦国武将遠藤但馬守を祀った小山に立ち寄った。さらに林の中の急勾配を喘ぎ、奥弓張の但馬岳(385m)へと登る。息が上がるほどハードだ。頂上の砲台跡は公園化されていて、ここから見る九十九島もいい。
それから弓張岳展望台(364m)へ。晴れた日には九十九島から市街地まで一望出来る。佐世保は綺麗な街だな、と誰もが思うだろう。
弓張の丘ホテルへ下る道の途中に、いくつも文学碑がある。昔は桜の名所として賑わったようだ。下り道は鵜渡越の旧道を辿る。
そして、『嗚呼第四十三号潜水艦の碑』を通り、第十九代海軍佐世保鎮守府長官・財部 彪が九十九島の絶景を見せるため老母を背負って登ったという逸話がある『扶老坂』を下る。やがて御船町に着いた。

A
「静観山の家」と呼ばれる吉岡町に残る武家屋敷跡。
B
金毘羅神社から相浦方面が望める。スタートからここまで45分。
C
岩がゴロゴロした難所を登る。パイプが道しるべ。
D
登り切ると中吉越の稜線に出た。
E
アサンキ岳(400m)から望む相浦方面。
F
高筈岳(420m)からは市街地側が望める。
G
将冠岳(445.1m)の山頂に到着。ここまで約2時間かかった。
H
中通りの方に杉林の中を下る。
I
中通りの登山口には鳥居が。
J
本当はこちらが但馬岳。山頂に戦国時代の武将、遠藤但馬守を祀る神社がある。
K
弓張岳展望台は眺望も素晴らしく、いいデザインだ。将冠岳からここまで1時間20分。
M
鵜渡越から扶老坂を下る。
N
嗚呼第四十三号潜水艦の碑。
弓張岳の広場には文学碑が並んだ散歩道がある。
「空いっぱいに空が あるように」と、平戸出身の藤浦洸は西海の自然をおおらかに詠いあげている。この詩をモチーフに交響詩「西海讃歌」が生まれた。
昭和44年、西海国立公園制定10周年記念として「西海賛歌」を作曲した團伊玖磨は、弓張岳で「空いっぱいに」の碑を見て触発されたという。海と島の雄大さをイメージする交響詩だ。
「七つの子」など多くの童謡を作った 詩人、野口雨情。昭和2年に公演のため佐世保を訪れたとき、童謡指導を兼ねて即興で、この弓張岳の詩をつくった。
日本浪漫派の代表的作家、吉田弦二郎は明治の佐世保鎮守府開設のころ、少年時代を佐世保で過ごした。「ふるさとの春の山こえなつかしき」と書かれた望郷の詩である。
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「かなしみの雪ふる島あり」と佐世保出身の坂口涯子(秀二郎)は詠っている。九大医学部出の医師。『俳句基地』『鋭角』主宰。句集に『雲づくり』『航海日誌』がある。
前岳砲台跡について
明治 22 年(1889)に佐世保鎮守府が開設されると、それを囲んで要塞施設が陸軍によってあちこちに作られた。将官岳の尾根が延びたとこにある前岳には、御影石や煉瓦を使った見事な砲台跡が残っている。 明治34年に完成したもので、相浦谷を登って攻めてくる敵に備えて、小型のカノン砲が設置されていた。これらの砲台は、ついに使われることはなかった。